社交辞令的な本音

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書評

『幸せになる勇気』を読んで考えた、アドラー心理学とカント倫理学との交差点

『幸せになる勇気』を読了した。

 

 

アドラー心理学をいかに実践するかという内容の良書であった。もっと咀嚼するために、後日もう一度読むことにしよう。

そのことは置いておくとして、今回読み進めるうちにある気づきを得た。それは、アドラーとカントとの共通点についてである。

 

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アドラーの思想は実践できない?

アドラーが述べることは理想主義で現実的ではない、と言われることがある。

例えば「他者を無条件に信頼する」というテーゼ。なんとなく耳障りのいいセリフだが、無条件に信頼して詐欺にあう、なんてことは十分起こり得る。実践することは難しい。

もしかすると『幸せになる勇気』が書かれたのは、そういった「実践できない」という批判に答えることが目的の一つだったのかもしれない。

たしかに本書は実践的な内容となっている。教育の現場でアドラーを実践しようとしてうまくいかない青年の悩みを、議論を通じて哲人は解決に導いていく。アドラーに懐疑的になってしまった青年であったが、徐々にアドラーに引き戻されるようになる。

ただし、青年はアドラーの理論について再学習しただけであって、まだ実践はしていない。哲人と青年が最後の面会を終え別れるシーンで本書は幕を閉じるのだが、青年が現実世界に戻った時に、再度うちひしがれないかが心配である。

 

どこにカントとの共通点がある?

アドラーの思想が実践しがたいということは、哲人の発言からも垣間見ることができる。

 

当然、相手の考えていることがすべて「わかる」ことなどありえません。「わかりえぬ存在」としての他者を信じること。それが信頼です。われわれ人間は、わかり合えない存在だからこそ、信じるしかないのです。

たしかに、アドラーの理想はいまだ実現されていません。実現可能なものかどうかもわからない。ただし、その理想に向かって前進することはできます。個人としての人間がいつまでも成長を続けられるように、人類もまた成長を続けられるはずの存在なのです。現状の不幸を理由に、理想を捨ててはいけません。

 

やはり、アドラーは理想論者なのか。

しかし、これらの「実現できないかもしれないが努力し続ける」という考え方が、カント倫理学とシンクロするのである。

 

カントの倫理学とは

一口にカント倫理学といっても、論点は多岐にわたる。今回アドラーと交わると思えたのは、「道徳的に善い行為」についてのカントの考察である。

この考察について、簡単に紹介しよう。これから述べることは以下の書籍の解説に基づいている。

厳格なカントの思想

カントが言う道徳的に善い行為とは、一般的な感覚とは少し異なる。

例えば「川で溺れている子どもを助け出す」という行為。普通の感覚であれば、文句なく道徳的に善い行為といえるだろう。

しかし、カントは首を縦に振らない。カントは、その行為だけではなくその行為が行われた動機に着目するのだ。

子どもを助けた理由は、もしかすると「賞賛されたいから」という自己愛に基づいたものかもしれない。あるいは無意識的にせよ「子どもを助ける自分に酔いしれる」という動機によるのかもしれない。

それらの動機に基づくのであれば、子どもを助けた行為であったとしても、道徳的に善い行為とは言えないとカントは断ずる。

彼の考える道徳的に善い行為とは、「困っている人は助けるべきだから助ける」という道徳法則への尊敬に基づいた動機によるものでなければならないのだ。

しかしカントの考えに基づくと、道徳的に善い行為をなすことは非常に困難である。他人に親切を施す際に、利己的な目的を一切介入させないということが、はたして可能であろうか。

 

人間は強くなることができる

アドラーもカントも、とうてい実現できそうにない理想を説く。そのことが両者の共通点である。彼らの思想は荒唐無稽なものなのであろうか?

いや僕は、この理想主義的な思想をとても美しいと思う。

およそ到達できそうもない目標を掲げ、そのために苦しみながらも不断の努力を捧げる姿勢を見習いたい。仮にその目標が達成されなかったとしても、その過程を通じて己をより善いレベルへと高めることができるはずだからだ。

彼らの思想には、人間への曇りない希望を感じることができる。

 

終わりに

最後に『悪について』からの引用で締めくくりたいと思う。道徳的に善い行為についての、カントの姿勢がありありと見て取れる箇所の引用である。

 

道徳的善さを求めるかぎり、他人に親切にする場合、その動機として自己愛の片鱗も有すべきではない。このほとんど実現不可能なことを、それでもなお要求するところに、道徳的善さを求める彼の厳格な姿勢がある。

どんなに道徳的善さについて知っても、それを実現しようと努力しても、道徳的善さはわれわれのからだを擦り抜けてしまう。実現された行為は、どうにか外形的に道徳的善さに似ているとしても、その表皮を剥がしてみると自己愛にまみれた汚濁物である。(中略)この一見解けない方程式をとこうとすること、それがカントの倫理学に対する姿勢なのである。

 

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